◎多くのビジネス企業は、MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)に基づいて、日々事業活動を行っています。
「戦国大名が、令和ビジネスの時代に株式会社を経営していたら?」織田信長・武田信玄・上杉謙信・伊達政宗を例に、勝手にMVVを考えてみました。
◆MVVとは?
「ミッション・ビジョン・バリュー(MVV)」は、オーストリアの経営学者ドラッカーにより組織の存在意義や社会的なポジションを示すための方法として提唱され、現代ビジネスの場でも広く浸透しております。
MVVを通じて、経営理念を社会や従業員、各ステークホルダーへ伝えることで、継続的な事業活動や組織方針を維持することが目的として挙げられます。
では、もし戦国武将がビジネス会社の社長だったら、どのようなMVVを提唱したでしょうか!?彼らの行動と性格から、勝手に想像してみました。
◆株式会社「織田信長」
【MISSION】
・世界を視野に入れた天下統一の実現(脱!日本)
【VISION】
・天下布武(天下を武力で平定する)
【VALUE】
・不要な旧制度の排除と、イノベーション(革新)を実現する。
・経済政策を重視し、商業の促進による貨幣の流通を実現する。
・実力主義による組織を作る。(成果には見合った報酬、失敗には制裁を!)
織田信長は、「天下布武」をスローガンに天下統一へ向け政策を進めました。
この「天下布武」が使用され始めた時期ですが、桶狭間の戦いで今川義元を倒し、信長が美濃(岐阜)の斎藤氏を攻め滅ぼした後の比較的初期ステージだったようです。
領土が広がった後に「天下を統一する!」と宣言したのでは無く、中規模レベルの時点で使用したスローガン(決意表明)と考えられるでしょう。
有言実行タイプですね!
行動指針(VALUE)として、室町幕府15代将軍・足利義昭の追放や、比叡山延暦寺焼き討ち等、古い概念に縛られないイノベーション(革新)政策を実行しています。
また、織田信長は経済政策についても「楽市楽座(商売の自由化)」や、戦国大名間で茶会をはやらせることで茶器に高価な値段を付け、貨幣の流通を促しています。
茶会は、今のビジネスで言うと、会食やゴルフ接待に近いイメージでしょうか。
ミッションで「天下統一」を挙げましたが、彼の言う”天下”がどこまでを指すのか?南蛮貿易で広く世界を見据えていたところもあり、アジア地域~全世界が彼の目指す天下だったのかもしれませんね。
明智光秀にの裏切りにより、織田信長は”志半ば”で本能寺で討死してしまいましたが、その後の行動を見てみたかったと思うのは私だけでしょうか。。
◆株式会社「武田信玄」
【MISSION】
・”人”を基盤とした天下統一による強固な社会の実現
【VISION】
・京都上洛による武田幕府の樹立
【VALUE】
・人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇(あだ)は敵なり。
・「風林火山」に則った戦闘をおこないます。
・確かな情報の入手と、策略を最大限活用した戦いを実施します。
武田信玄は、人材と組織を重視しています。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇(あだ)は敵なり。」の言葉に代表される通り、人材こそ国の基盤と考え、一生涯において大きな城郭を持つことはありませんでした。
織田信長が豪華絢爛な安土城を築城しましたし、上杉謙信は難攻不落の春日山城を居城としています。武田信玄は、代々引き継がれた館(躑躅ヶ崎館)を本拠地としており、他大名の城郭に比べると見劣りしてしまいます。
おそらく、海に接していない甲斐(現在の山梨県)は守る土地ではなく、攻めるべき土地だと考えていたのかもしれません。
武田氏の家系は清和源氏の流れを汲んでおり、京都上洛の後は幕府を開くことを視野に入れてたと思われます。
行動指針(VALUE)については、孫子の「風林火山」を旗印に掲げている通り、
「疾 (はや) きこと風の如く、徐(しず) かなること林の如く、侵略(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」
を組織に浸透させていました。
京都上洛を目の前にして、病に倒れてしまった武田信玄ですが、もし長生きしていたら?天下を取っていたのは、彼だったのかもしれませんね。
織田信長にとって、彼の急死は天の助けに感じたことでしょう。。
◆株式会社「上杉謙信」
【MISSION】
・毘沙門天の化身として、”義”による天下泰平の実現
【VISION】
・足利幕府再興を目指し、傲慢な他国武将を排除する
【VALUE】
・義に反する行動は許さない。
・朝廷、幕府を尊び、規律ある行動をとる。
・弱者には手を差し伸べ、悪者には容赦ない制裁を下す。
上杉謙信は、軍神と言われる通り、毘沙門天(四天王の一人で、北方の守護神)を崇拝した人物です。旗印には、「毘」の文字を掲げています。
義に厚く、秩序を守る、武士の鑑のような人ですね。
北信濃の豪族が武田信玄に攻められ助けを求めてきた時、迷いなく手を差し伸べています。また、「敵に塩を送る」の故事で有名なように、敵である武田信玄を苦しめる経済封鎖(生活必需品である塩の輸送を止めること)を潔しとせず、援助しています。
VISIONに関しては、室町幕府の役職である関東管領として勤める等、幕府への敬意を忘れていません。幕府再興に貢献することが、彼の”義”であると考えていたと思われます。
川中島の合戦で武田信玄と激闘を繰り広げた上杉謙信ですが、VISIONに関して大きな違いがあったようですね。
余談ですが、毎年4月末~5月にかけて、山形県米沢市で「上杉米沢まつり」が開催されています。上杉謙信の後を継いだ上杉景勝(かげかつ)の時代に上杉家が米沢へ移転となりましたが、現在でも米沢の地で「川中島の合戦」が再現されています。
甲冑を着た市民達が、迫力満点の合戦を繰り広げます。私も一度見学させて頂きましたが、戦国ファンとしては感慨深いものがあります。皆さんもぜひ!
最期にもう一人、東北の暴れん坊・独眼竜正宗について書きたいと思います。
◆株式会社「伊達政宗」
【MISSION】
・ユーモアのある社会と天下統一への貢献
【VISION】
・東北地方を基盤とした、伊達家領土の最大化
【VALUE】
・どんな状況でも諦めず、最大のパフォーマンスを発揮する。
・TPO(時間・場所・機会)を考えた行動をする。
・常に心には野望と闘志を秘め、ユーモアのある行動を心がける。
伊達政宗ほど、面白い戦国武将はいないと思います。
子供の頃に病気で右目を失い、また家臣の裏切りにより、家督を継いで間もなくで父(伊達輝宗)を失っています。秀吉や家康に比べ年下のため、「もう少し早く生まれていれば、天下を取れた」と言われた彼ですが、生き様はユーモアに富んでいます。
豊臣秀吉による小田原城討伐の際、参陣命令に遅れをとった政宗は、白装束(切腹の時に着る服)で秀吉と対面しています。
また、同じ秀吉の家来である蒲生氏郷(かもううじさと)に対し、裏で一揆を扇動して苦しめたと疑われた時は、黄金の十字架を背負って上京したと言われています。
また、慶長遣欧使節として支倉常長などをスペイン・ローマへ派遣し、貿易を積極的に進めています。これは1613年頃の出来事ですが、この時政宗は
「まだ天下統一を諦めていなかったのではないか・・」
という説もあります。
「あと10年早く生まれていれば、天下を取れた」
など、彼の周りには面白い話題で溢れています。
個人的には、渡辺謙さんが20代の時に演じた大河ドラマ「独眼竜政宗」が一番好きですね!その中で、政宗のことを「まるで織田信長のようだ」と例えるシーンがありましたね。
奇抜な発想と気性において、共通する部分があったのかもしれません。
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